「挑戦を続ける経営者」 ― Amigojapan代表 田中淳一の歩み
エピソード
────────
大嫌いだった空手
小学1年生の頃、一番仲の良い友達に誘われて空手を始めました。
しかし、その友達がすぐに転校してしまい、それからは辞めたいという気持ちばかりでした。
母や先生に厳しく指導され、嫌々ながらも5年で黒帯になるまで続けました。
「黒帯になったらやめる。」
そう思っていましたが、一度だけ本気で取り組み、組み手で全国大会に挑戦すると、全国優勝を果たしました。
この経験で学んだのは、**「最後までやり抜けば結果はついてくる」**ということでした。
そして私は、本当にやりたかったサッカーの道へ進みます。
────────
ブラジルで夢を追ったサッカー青年時代
私の原点はサッカーです。
小学生時代は中津川スポーツ少年団に所属しトレセンにも選ばれ、リーグの得点王にもなりました。
中学時代は部活やクラブチーム(現在のジーベック)に所属しながら、中津川市の社会人チームでもプレーし、
後にJリーグや日本代表でも活躍した坪井慶介選手と一緒にプレーしていました。
中学卒業後はプロサッカー選手を目指し、単身ブラジルへ留学。
サンパウロ州のアメリカFCでは、後に「伝串 新時代」を創業する「佐野直史さん」と同じチームでプレーしました。
その後、当時そのカテゴリーでサンパウロ州トップクラスだったフェホビアリアFCへ移籍。
しかし、前十字靭帯断裂という大怪我を負い、プロサッカー選手になる夢を断念しました。
夢は終わりましたが、
「一度決めたことを最後までやり抜く。」
という姿勢は、この経験で身につきました。
────────
土木作業員として社会を学ぶ
帰国後はサッカーを諦め、地元の建設会社で土木作業員として働きました。
中津川市の三菱電機事務所建設工事や、恵那市の場外馬券売場「シアター恵那」の建設工事などに携わりました。
現場監督が退職した際には急遽その役割を任され、施工管理や工程管理など土木工事の基礎を実践で学びました。
この経験は、後に自社で設備投資や店舗づくりを行う際に大きな財産となっています。
────────
「いつか社長になる」
1998年、製造業へ就職しました。
溶接、シーケンサー制御、フォークリフト作業などを担当しながら、入社当初から周囲にこう言い続けていました。
「将来は社長になりたい。」
社長の近くで仕事をさせてもらう機会はありましたが、経営を直接教えてもらうことはありませんでした。
だからこそ、
「自分で学ぶしかない。」
そう決意しました。
毎日のように経営書を読み、小さなネット販売や委託販売を始め、商売の基礎を独学で身につけました。
2005年 この頃、タイヤ販売は「自分が安くタイヤを買いたい」という理由から始まります。
中津川のタイヤ館店長へお客様を紹介することが、タイヤビジネスの原点でした。
────────
2008年、Amigojapan創業
地元の中古車販売店の社長の勧めもあり
給料が安定していたサラリーマンを辞めて
古物許可を取得し、先ずは中古車販売業として起業しました。
屋号はブラジルで覚えたポルトガル語の
「Amigo(友達)」
から名付けました。
「日本中に友達を増やしたい。」
それが Amigojapan の由来です。
タイヤ販売を中心に、空いている時間は洗車500円、タイヤ脱着1,000円と
いう価格で利益の事はあまり考えず仕事を始めました。
周囲からは
「そんな値段では絶対に潰れる。」
と言われました。
さらにタイヤを安く販売しすぎたことで、紹介していたタイヤ販売店との取引も停止。
そこで私は考えました。
「だったら自分でタイヤ屋を作ればいい。」
自宅の車庫にタイヤチェンジャーとバランサーを導入し、完全独学でタイヤ交換技術を習得。
タイヤ販売の仕組みを一から作り上げました。
この頃から製造業で培った工具の使い方や素材別の細かい加工作業が活きてきました。
────────
在庫が持てない10年間
創業当初は本当に資金がありませんでした。
家族や親族からも支援を受けられず、タイヤを仕入れたくても在庫を持つことができなかったのです。
その当時はまだ少なかった仕入れが必要ない、ネット購入タイヤの持込交換を数多くこなしました。
気が付けば地域最大級のタイヤ交換作業実績を積み重ね、どんなタイヤでも交換できる技術を身につけました。
朝から晩まで忙しく働き、毎日遅くまで仕事をしていましたが、全然儲かりませんでした。
苦しい10年間でしたが、この経験が現在の技術力の土台になっています。
────────
車事業への挑戦と撤退
2012年頃から本格的に中古車販売や車検代行にも力を入れました。
整備工場の自動車検査員とともに事業を伸ばし、チラシ配布を続けながら月10台の車検まで成長。
しかし、信頼していた人材の退職により事業継続が難しくなりました。
無理に続けるのではなく、増えたお客様を信頼できる整備工場へ引き継ぎ、一度撤退を決断しました。
この経験から、
「何でもやる会社ではなく、強みを磨く会社になる。」
という経営方針が生まれました。
────────
タイヤ販売専門店への転換
2015年。
車全般から一歩引き、タイヤ販売に経営資源を集中しました。
ネット販売では年間1万本規模のタイヤを販売。
店頭では「4本コミコミ価格」で地域最安値を目指しました。
大量販売による価格交渉を進める中で、担当者に裏切られ一度はタイヤ卸業者との取引停止も経験しました。
しかし、タイヤ卸の社長と交渉した結果、卸会社も担当者側の対応に問題があったことを認め、
以前より良い条件で取引が再開。
「信頼は何よりも大きな財産である。」
そう実感した出来事でした。
────────
コロナ禍で未来への投資
2020年。
コロナ禍では店舗を無人化し、お客様との接触を最小限に抑えました。
売上だけを追うのではなく、未来への投資を始めました。
当時18歳の息子に、
「これからは一つの仕事だけでは生き残れない時代になる。」
「マルチタスク人材の育成が必要だ!」
と伝え、息子に2年間で数多くの作業資格や国家資格の取得に挑戦させました。
その結果、25種類以上の資格を取得し
・ドローン事業
・電気工事事業
・庭事業
という新たな柱が誕生しました。
────────
現在、そして未来へ
コロナ明けは通常営業へ戻ることに戸惑いながらの再出発でした。
しかし現在は再び全速力で事業を成長させています。
最新のタイヤチェンジャーや設備を導入し、創業当時と比べて作業能力は約3倍まで向上しました。
これからも設備投資を続け、お客様を待たせない地域一番のタイヤ専門店を目指していきます。
────────
2026年現在
タイヤ販売事業
毎年30%以上の成長を継続。
国内メーカーの最安クラスの商品から高級プレミアムタイヤまで幅広く販売し、近年はプレミアムタイヤの販売比率が大きく伸びています。
また、中津川から全てのタイヤ卸業者が撤退したことを受け、地域のお客様を待たせないよう店頭在庫を大幅に増強。
ネット販売も活用しながら売れ残り在庫を効率よく循環させる仕組みを構築しています。
近年はタイヤメーカーと400本単位の契約で交渉し大量仕入れでエリア最安値に挑戦!
店頭は2025年から息子に店長を任せています。
年間100万本以上流通している複数の卸からもそれぞれの強みを活かした仕入れをしています。
さらに、中津川市だけでなく恵那市・瑞浪市・土岐市・多治見市など遠方から来店されるお客様も年々増えています。
ドローン事業
難易度の高い国家資格一等無人航空機操縦士を取得。
大成建設・三井住友建設によるリニア中央新幹線関連工事の空撮を担当。
全国ネットのテレビ番組への映像提供など、空撮技術も高く評価されています。
電気工事事業
第二種電気工事士→第一種電気工事士を取得。
岐阜県知事登録電気工事業者となり、大規模電気工事からエコキュート交換まで幅広く対応。
水回りの仕事は水道屋さんと組み、電気工事士と水道屋でタッグを組んで現場を回しています。
現在は1級電気工事施工管理技士の取得にも挑戦しています。
庭事業
祖父が長年庭師だったこともあり、若い頃から庭仕事を手伝ってきました。
その経験を活かし、「庭を造る」のではなく、「庭じまい」という新しい分野へ挑戦。
管理できなくなった庭木の伐採や防草工事など、高齢化社会のニーズに応えています。
現場の作業音対策でエンジン式からバッテリー式へ移行し騒音対策にも対応しています。
────────
私の経営理念
私は天才ではありません。凡人です。
だからこそ、
「できないなら学ぶ。無いなら作る。」
「努力できないやつに未來はない!」
という考えで歩んできました。
サッカーで夢を失い、資金も人脈もないところから起業し、多くの失敗や挫折を経験しました。
それでも、一つひとつ課題を乗り越え、独学で事業を積み重ねてきました。
しかし今は違います。
家族をはじめ、税理士、銀行、取引先など多くの方々に支えられ、一人で悩んでいた頃よりも
何倍も早く学び、成長できるようになりました。
私はこれからも創業時の
「Amigo=友達」 を 「japan=日本全国」 へ
という想いを忘れません。
日本中に信頼の輪を広げ、地域から全国に必要とされる会社をつくるため、挑戦を続けます。
諦めずできるまで挑戦を続ける限り、人も会社も成長し続ける。
その信念を胸に、これからも学び、挑戦し続けていきます。

